真の幸福とは何か!?『人生論ノート』三木清
著者紹介
・哲学者 三木清(1897〜1945)
・雑誌「文學界」の編集長である、小林秀雄から”一般向けの哲学エッセイ”を書かないか?と言われたのが人生論ノートを書き始めたきっかけ
・三木が昭和13年〜16年(1938〜41)の第二次世界大戦前夜に雑誌「文學界」に連載した”人生論”
・「死について」から始まり”幸福”、”成功”、”怒り”、”嫉妬”、”健康”など、普遍的な23のテーマについて書かれている
・昭和16年に(1941年)に刊行
若者を中心に”人生の指針”として長く読まれてきた
明治30年(1897年) | 兵庫県揖保郡に生まれる 幼い頃から秀才 |
単身で上京し第一高等学校に進む | |
西田 幾多郎 の本「善の研究」に出会い、哲学の道へ | |
大正6年(1917年) | 西田 幾多郎が教鞭をとる京都帝国大学に進む |
大正11年(1922年) | ヨーロッパに留学 |
ドイツで哲学者「マルティン・ハイデガー」に最新の哲学者に触れる | |
大正13年(1924年) | パリでパスカル論を執筆 |
大正14年(1925年) | 帰国後 大学の哲学教授になる |
昭和4年(1929年) | 結婚 |
昭和5年(1930年) | 治安維持法で検挙 |
昭和12年(1937年) | 日中戦争 開戦 |
昭和13年(1938年) | 国家総動員法 (幸福を追い求めることが許されない時代に) |
昭和20年(1945年) | 獄死(治安維持法により逮捕) |
昭和29年 (1954年) | 文庫版の「人生論ノート」が現在までに108刷りのベストセラー |
昔だけではなく、現代も幸福を追求できていない
今日の人間は幸福について殆ど考えないようである。
試みに近年現われた倫理学書とりわけ我が国で書かれた倫理の本を開いて見たまえ。
只の一個所も幸福の問題を取扱っていない書物を発見することは諸君にとって甚だ用意であろう。
むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。
幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。
幸福の要求がすべての行為の動機であるということは以前の倫理学の共通の出発点であった。現代の哲学はかような考え方を心理主義と名づけて排斥することを学んだのであるがそのとき他方において現代人の無秩序が始まったのである。
この無秩序は自分の行為の動機が幸福の要求であるのかどうかが分からなくなったときに始まった。
幸福の欲求が今日の良心として復権されねばならぬ。
なぜこのような回りくどい書き方かというと、言論統制化にあったから。だからあえて持って回った書き方になっています。三木清は「本当のことを書こうと思えば狂人になるしかない」と言っています。
まぁ簡単にいうと、幸せについての本って最近出されてないよね〜。てか、幸せについて考えてはいけないこの空気になんなの?そもそも、自分が幸せになるから頑張るでいいんじゃね?幸せについて考えるなんて不道徳だ!っという、この今の空気なによ?っということです。
幸福への欲求が抹殺されていた時代は個人よりも皆だった。だがそうなると全体主義やファシズムに陥ってしまう。そのような考え方だと何のために何をしているのか分からなくなってしまう。
言論統制化では幸せについて考えてはいけないっとは嫌な時代だったんだな。
でも、現代も幸せについて考えてはいけない空気になっていないだろうか?
例えば、過労死です。過労死になるまで働くということは、個人の幸せではなく、会社全体の幸せを考えて、自分を犠牲にしてしまっている。
確かに「ちょっとこれ以上働いたら、プライベートも充実しないんで休みます!」っというのは言いづらい。現在は言論統制化ではないのに、言いずらい言えない空気が世の中にはある。
幸福を追求することは利己主義なのか?
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。
我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。
自己犠牲や滅私奉公が”徳”とされていたので、幸福は徳だという思想は危険だと思われていた。
また、自分が幸福であることは”利己主義”ではない。なぜなら、自分が幸せでなければ人に優しくする事すらできないから。
成功は”過程”であり、幸福は”存在”
成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。
「成功は”過程”であり、幸福は”存在”である。」っと三木清さんは言っています。
つまり何かを達成できたら幸せになれるのではなく人はもうこの瞬間に幸福であるという考え方です。
また三木清さんは「幸福とは各人にとって”オリジナルなもの」とも言っています。つまり、誰もが真似できないオリジナルな幸福を持つことができるということです。
だから世間一般でいう成功を収めた人が必ずしも幸せではない。
つまり、成功したから幸せになるという因果関係はないということ。
確かに成功している人に幸せの人は多いかもしれないが、因果関係ではない。ただの相対関係に過ぎない。だから幸せになるために成功を追い求めるの違う。
だから、ぼくたち一人一人が”私が”幸せになるにはどうすればいいか、今一度考えるべきです。
真の幸福とは人格であり命
幸福は人格である
ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気軽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。
しかし真の幸福は彼はこれを捨て去らないし捨て去ることもできない。
彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。
幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
刹那的な幸福、偽りの幸福をコートを脱げるようにいつでも躊躇うことなく脱ぎ捨てることができる人が幸福。でも偽りの幸福は脱ぎ捨てることができるが脱ぎ捨てられない幸福とは人格であり命でということ。
つまり、真の幸福とは人格であり命ということです。
例えば、嫌われる勇気で有名な岸見一郎さんは、10年前に心筋梗塞で倒れました。
そのときに仕事を失いました。そのような状況に陥ったとしても、どうすれば幸福でいられるかどうか考えました。
そのときに幸福だと思わたものはただの成功だったと気づきました。
だから仕事という偽りの幸福は脱ぎ捨てて、こうして生きていることが幸福なんだと思うことができれば、どんな困難でも耐えぬき生きていけると思ったそうです。
”幸福感”と”幸福”は違う
幸福とは、高揚したのをイメージをしがちだけど、高揚といった感じではない。
だからパーティーピーポーは幸福感はあるかもしれないが、幸福とは限らないということです笑
つまり、幸福とは”感性”ではなく、”知性”で考えるもの
だから自分自身の幸福を考え続けないといけない。また決して考えることを放棄してはいけない。
まとめ
・幸福への追求をするべき
・幸福を追求することは利己主義ではない。なぜなら幸福でなければ周りを幸せにできないから
・幸福の定義は人それぞれ違う
・真の幸福とは人格であり命である
・幸福とは”感性”ではなく、”知性”で考えるもの